サイドバイサイド

バナナマンライブ2019『S』。今回初めてバナナマンが導入した全国の映画館でのライブビューイングで鑑賞してきた。

バナナマンにとっては勿論だが、ここ5年間立て続けに運よくバナナマンのライブに当選している俺にとっても夏の風物詩といえば、花火大会でも、お祭りでも海でもなく、バナナマンライブになっている。
俳優座で見る前から当然バナナマンのコントは誰のネタよりも面白いものに違いないと感じてはいたけど、2014年に見た『LOVE is GOLD』の衝撃は未だに色あせずにいて、高校3年の夏に生のバナナマンを見てしまったことは幸か不幸かは分からないけれど、確実に人生が狂わされる経験になってしまった。
バナナマンのコントのどんなところが好きかと聞かれたら、彼らのコントの多種多様性から毎回答えに詰まるのだけれど、敢えて2014年に生で初めて見た2人のライブで受けた衝撃を言葉にするなら、バナナマンのコントは実人生〈現実世界〉以上に〈濃密な人生〉が存在しているように感じてしまうということなんだろうと思ってる。
バナナマンのライブを生で、もしくは映像で(もちろん法に触れてない方法で!)見たことがある人なら承知のことだとは思うけど、1本のコントの長さが普段テレビで見るコントの3倍以上もしくはそれ以上ということがバナナマンにとってはオーソドックスな長さ。なぜこんなにも長い時間をバナナマンは平気で取り組むのか。
それはバナナマンのコントが単なる笑だけを目的にしてない非常に物語的なつくりをしていることが原因だということは恐らく散々言われてきていると思うけど、本当に物語として成立してるの?みたいなコントもたくさん溢れていることをもっと重視してもいいんじゃないか。
バナナマンの関心はむしろ、物語以上にキャラクターの魅力だけで観客の感情をぐっちゃぐちゃにすることにあるんじゃないかとここ数年のライブを見るたびに考えずにはいられない。
今回のライブはまさにその到達点の様にすら感じる傑作だった。

以下、コントの詳細に触れるので、ネタバレを嫌う人は見ないでください。

 

 

「secondry man」

 

マフィアの2人組がボスの座を争いながら、敵のアジトを襲撃することをもくろむコント。
今回のライブのフライヤーと同じ構図でソファが設置され、ソファの真ん中に設楽さん、ソファの手すりに日村さんが腰かけ、座り位置的に、この時点では設楽さんが格上の人間であるかのように見える。
まず驚かされるのは最初のボケ(日村さんに敵のアジトへ1人で出向かせる内容)が出るまでに2分近く(体感なので実際の長さはわかりませんが)ただの会話のやり取りでつなげていること。そしてそれほどまでに長く観客の最初に飛び出すボケへの期待度をあおりながら、そのボケは一連の設楽さんの長い台詞の中に組み込まれているせいで、セリフの内容がかなりカリカチュアされたものではあっても、その台詞を口にする設楽さんにとっては特別なことでもなんでもない本来ボケとすら感じていないような内容なのだ。
コントにしてはあまりにキチンとしたスーツの衣装やセットの豪華なソファを用いながら、時間をかけて作り上げてきたマフィアの世界の緊張感を崩すほどの大ボケは意図的に回避されている印象を受けた。
バナナマンは目先のわかりやすいボケを回避する代わりに、彼らの舞台上に再現したリアルな裏社会のゴージャスっぽさや、その裏にある血で血を争う汚さへの観客の想像力を損なわない程度に、この設楽さんと日村さんの演じるキャラクターの設定を把握させることにまず注意を仕向けているのだろうという気がする。
その後のやり取りでは、敵のアジトへ行かに乗り組むかという議論は棚に上げられ、議論の中心が格上に見えていた設楽さんと日村さんが実は全く同じ立場の人間であったという裏切りにボケの内容が変化する。
マフィアの階級社会の中でどんぐりの背比べをすることの滑稽さこそがこのコントの肝になるのであり、だからこそ、冒頭での前ふりとボケの回避はキャラクターの設定をより際立たせるための選択であったことが分かる。
ド頭にこのような人間関係を描くコントを持ってきていることが、バナナマンの関心がキャラクターのリアリティにあると確信させてくれるようだった。

 


「surprise進行中」

 

日常的にサプライズを仕掛けてくる友人への仕返しに誕生日サプライズを決行することを設楽さんに相談する日村さんが、逆にサプライズにあってしまうというコント。
過去にドッキリを企てるネタというのはバナナマンにいくつもあるが、今回のコントは突飛なサプライズの提案をする可笑しさを描くただの会話劇にとどまらない展開を見せる。
日村さんはというと誕生日に友達をお祝いしたいという気持ちで、友人思いのキャラクターであるように見えるが、これまでに仕掛けられた内容はと言うと、「チョコと言われて兎のウンコを食わされる」だとか、なかなかに強烈なエピソードばかり。しかもその友人だけでなく、設楽さんからも過去に何度も容赦のないサプライズないし攻撃を浴びているが、あくまで友人関係の上で成り立つサプライズであると信じて疑わない異常さを兼ね備えていることが示される。
設楽さんは日村さんに対し、裸でオムツを履き、巨大な箱に入ったまま友人の家に宅配物として届ける案を提案するが、そのときに「たまたま家に巨大な箱があった」だとか「オムツがたまたま箱の中に入っている」というよくコントの中で許容される「そんなことあるかーい」というフィクションを導入する。笑いの強みと言うのはこのような「そんなはずあるかーい」というご都合主義を許容させてしまうことにあると思ってはいるけれど、これはバナナマンの様なリアリティのある、且つ笑い以外の感情にアクセスすることを目指すコントを実践する場合、一瞬にしてフィクションの脆さが露呈することにもなり得ることだって十分あり得ると思う。
だからこそ、バナナマンはこの「たまたま家に○○があって」というご都合主義を逆手にとってすべてが計画の上で、まんまと罠にはまった日村勇紀という構造に仕立てることで、フィクションとしての脆さが寧ろリアリティを支えるようなものへと性質を変化させる。わざと、雑に観客に見せることで、違和感を宙吊りにするサスペンス。これは見事としか言えない。見ていてその用意周到さと、出てくるキャラクター全員に「あくまで友達思い」というピュアさがあるからこそ、本当に背筋が凍る。
善であると信じてたことがいつの間にかとんでもない事件になっている悪の不在というかその類の怖さ。僕はバナナマンのコントの中でもベスト3にはいる気持ちの悪さを堪能した。

 


「scrambled」

 

アメリカの少年は自分の思いを素直に言葉に出来ず、意中の女の子に告白できない。彼女にプレゼントするはずだった指輪の入った袋をお店の店主ジョニーが持っていたオオカミのおしっこの入ったボトルと入れ替わり、女の子の機嫌を損なってしまう。更にそこに銀行強盗を企てるマフィアのボスと部下の2人組がやってきて、銃の入った袋が加わってしまう…という今回のバナナマンライブで唯一の1人複数役のコント。
様々な人間の思惑が交差するまさに人間関係の複雑さを視覚化したようなコントだけど、今回のライブに一貫して、バナナマンディスコミュニケーションを描いているのではないかという予感をせずにはいられない。
それは、単に会話がかみ合わないことによる可笑しさと言うだけでは説明しきれない、会話の不成立こそがコントのキャラクターの関係を推し進めるような強度な役割を担っているものであるのではないかと感じた。
というのも、1本目と2本目のコントでは言葉の巧みさこそが、全く同じ力関係であるはずの人間関係に上下関係を生み出すものであったとしたら、この3本目に出てくる複数のキャラクターはどれも「好きな子に告白ができない意気地ない男の子」や「察しの悪すぎる店の店主」、「何をしゃべってるのか聞き取れないマフィアのボス」というどれもが会話での意思疎通に難を抱えている人間ばかり。
彼らは言葉でなく思いを伝えるために、指輪、オオカミのおしっこ、銃というモチーフを交換することで意思疎通を図ろうとしている。しかしそれらはすべて同じ色の袋に入れられていることで、受け取った人間は全く同じ入れ物から全く違ったエモーションへとその都度アクセスさせられる。
言葉のうまさがある種の上下関係を招いてしまうものであるとするなら、このコントの主人公と言える男の子は口下手なまま彼なりに身振り手振り、そしてプレゼントを渡す、抱きしめるという行為が先行することで恋を射止めることに成功することを描いているように見える。
バナナマンのコントはあまりに過剰に言葉にあふれ、複数の人物が交差する物語の構成の複雑さに目が向けられがちだが、それ以上に動きによる視覚的おもしろさを巧みに使いこなしていることが凄さだと勝手に思っている。だからこそ、単なるビジュアルの異質さで笑いを取るようなコントともまた一線を画し、バナナマンが独自の存在であることができる強みなんだろう。日村さんがあれほど裸にさせられるのも、バナナマンが視覚的おもしろさを信じてることの証でしょうね。きっと。

 


「searching for the superactive」

 

脱出ゲームに来た男友達2人がキャッキャ言いながら謎をクリアしていくコント。
大傑作。今回のコントで一番いい。僕がバナナマンのコントでベスト級に好きな「too EXCITED to SLEEP」の続編ではないかと勝手に推測している。「ドンドン警察」のワードに興奮した同士も少なくないのでは?
これに関してはゴタゴタいうのも気が引けるけれど、バナナマンがよく言われるような緻密に計算されたコントというだけでは決してないことが一目瞭然。
バナナマンは明確なオチが用意されたコントなんて実はそんなにないし、寧ろコントのネタが終わってからも続きがありそうな、まさに人生で誰もが経験しているワンシーンを切り取っただけのニュアンスで勝負するネタこそが僕が一番バナナマンを見ていてうれしくなる理由の一つ。昔から雰囲気や感覚だけで笑わせるネタというのはあったけど、ここ近年に日村さんの見た目の面白さに磨きがかかってからより積極的に取り組んでる印象があってそれこそが、ここ数年のバナナマンのコントを見る楽しみになっている。『LOVE is GOLD』の「AKEMI」なんてまさにその代表みたいなネタだよね。
このコントの場合は当然謎を解くことが物語を進める唯一の方法だと思うけど、バナナマンはと言うと、答えが思いついても全然答えを言わないしずっとボケ続ける。
俺はもう最悪バナナマンがボケ続けてるだけでいいと思ってるので、今回こんなネタを用意してくれたことに感謝しかない。むしろこの雰囲気だけで笑いが作れるのは、バナナマンがありとあらゆるキャラクターを演じることができるだけの幅の広さと、テレビに出て知的でもあり、バカを装うこともできる、場合によってはチンピラにもなれるからこそ成立するバナナマン2人が醸し出す雰囲気の賜物。
言うまでもないけど、ボケによる物語の進行の疎外もまたディスコミュニケーションそのものであって、会話が成り立たないが故に彼ら2人の関係は出来上がっている。

 


「scarlet」

 

赤えんぴつ。今回驚いたのは、舞台に照明の明かりが照らされた時すでに、おーちゃんは動けなくなっていることだった。
普段ならひーとんが余計なことを言うだとか、おーちゃんの意図に反する受け答えをして喧嘩があるにもかかわらず、今回は既に亀裂が入って歌える状況ではないという状態。
この省略がなぜなされたのか。それは観客の想像力に訴えるためではないか。暗転の間にあった2人のやり取りを観客は想像し、目の前に起こっている惨劇を受け入れなければならない。
赤えんぴつはコントの体裁を取りながらも、観客にむかって話しかけたりすることが可能となる稀有なシリーズコントだが、これまでの赤えんぴつが律儀に喧嘩して、仲直りするまでを描く工程を描いていたものだとするなら、今回は喧嘩する理由が目の前では示されない。そのとき、今回のライブで描いてきたディスコミュニケーションが観客との間にも生まれる。観客は目の前に倒れているおーちゃんの姿を見て、喧嘩したんだろうなと想像するところから始める。信じることで初めて舞台上の世界がリアリティなものに変貌を出来るのであって、それこそがディスコミュニケーションがキャラクター同士、更には観客席と舞台上のバナナマンの関係を推し進めることなのではないかとかそんなことを考えてしまった。
会話のできないおーちゃんとひーとんは、喧嘩で殴り合い、服を八つ裂きにする行為で初めてまた意思疎通ができるというのも見逃せない事実だと思う。

 


「something to say」

 

結婚式のお色直しの時間、小説家の設楽さんは締め切りの間に合っていない小説を書いている。そこに新譜の兄である日村さんがやってきて、これから式で読む手紙の推敲を設楽さんに依頼するが、その内容は妹の結婚式をぶち壊そうとするものだった・・・というコント。
今回のラスネタ。このコントも最初、バナナマンの超絶大傑作コント『destruction the composition』のやり取りを思い出させてくれたのでめちゃくちゃテンションが上がった。
手紙の導入から「俺、勇紀、日村勇紀、以後お見知りおきを」という腰を落とした変なポーズで始まる。
設楽さんはと言うと稚拙な内容を適当に聞き流し、椅子に座って小説を書き続けているのだが、「俺はこの結婚に反対です」という日村さんの言葉に衝撃を受けてついに、立ち上がって日村兄の暴走を思いとどまらせる言葉をかける。
式の中で、日村さんは事前に話した通りの手紙を読み、設楽さんは終始落ち着かないが、アドバイスに耳を貸したのか、最終的に妹の結婚を祝福する言葉で手紙を読み終える。
式を終えた後、設楽さんは手紙の内容に感化され再び小説を書き始めるが、そこに日村さんがやってきて昔設楽さんが日村さんの妹と付き合って別れたこと、しかしまだ未練のある設楽さんと妹の様子を察した日村さんが2人を思って結婚式をぶち壊す提案をするも、かつての恋人を思いやった設楽さんはその提案に乗らなかったことが明かされる。
とても感動的なラストの種明かしのあと最後に日村さんは再び「以後お見知りおきを」という腰をかがめたポーズで設楽さんと同じ目線になる。
このコントは一貫して立つ日村さんと座っている設楽さんの目線がどのタイミングで一致するかを考え抜いたコントであったように見える。
どんなに奇想天外な手紙の内容にも座って平静を保っていた設楽さんが、結婚を反対するという申し出に対してついに立ち上がらざるを得なくなり、2人は漸く対等にディスコミュニケーションではない会話が成り立つ。
最後の「以後お見知りおきを」と言うポーズは逆に日村さんの側から設楽さんの目線へと重心を下げる行為であり、一方的で我儘に見えた日村さんが実は周りをきちんと見渡すことのできる人物であったことがこの同じ目線になるという行為に集約される。
今回のライブ前半では、言葉の上手い下手が人間関係を変えてしまう要素であったのならば、中盤は言葉ではなく行為によって対等な人間関係を築こうとするものだった。そしてラストのこのネタはと言うと、行為と言葉が一致する時、それまで以上に強い互いの結びつきが可能となるかのような感動が詰め込まれていて、見終えた後に心が軽くなった。

そして小説や手紙という書き言葉は、日常では恥ずかしくて言えないような隠している感情を伝えることを可能にするツールとして用いられている。

 

 

終焉後の短いあいさつで2人が同じ目線で立って舞台上にいることの多幸感が今までで一番感じられたライブであった。
映画館で最初見た時の俳優座とは違う「遠い」印象は、コントを見ているうちにすっかりと「近さ」へと変化していて、〈今・ココ〉で見ているリアルタイム感を誘うバナナマンは矢張り神だと思ったし、彼ら以上にコントが上手い人はいないと思った。

大人の階段の〜ぼりすぎないで欲しい

今週の空気階段の踊り場。

水川かたまりの熱烈な愛の叫びと涙がとても良かった。

芸人のラジオだが、単に面白かったという表現だとかたまりの誠実さを台無しにしてしまう気がするので良かったと言いたい。

 

僕が21年も無駄に歳だけとってきてやっと分かったことの一つがお笑いと恋愛は相性が悪いということです。

 

これはバカリズムがANNG時代にも愚痴っていた表現が的確なので引用すると

 

「アーティストは歌ったあとそのまま女を抱けるのに、お笑いはネタをやった後とは一旦違う人の顔を装着しないと女を抱けない」

 

ということだ。

あまりにも鋭い指摘で、ラジオに日々ネタを投稿した(今は全然遅れてすらいないが)経験のある僕のようなタイプには痛いほどよく分かる。

ちなみにこの文脈におけるお笑いとは、(女性にモテるお笑いというのがあるのかは分からないが)例えばサラッと合コンの場において下ネタを混じえながら異性とコミュニケーションをとることのできるタイプのお笑いとは別であるという前提です。

 

まず第一にお笑いは、差別的な表現が避けられないように思う。KOCでのハナコについて「あったかい笑い」=「誰も傷つけない笑い」というようなコメントがSNSなどでされていたが、この所謂「あったかい笑い」の中にも例えばハナコが一本目のコントで披露した犬のネタは「犬」という人間と意思疎通が完璧には出来ない動物のある種の愚かに見える行動を愛おしい=「あったかい」と感じているため、絶対にどんなネタにおいても差別的な表現は含まれざるを得ないと僕は思う。

 

そうしたお笑いが持つ差別的な構造上、これが恋愛と結びつくとどうしても、恋するが故に我を見失う人物を神様的な視点で見守るテラスハウスや、ロンハーの恋愛ドッキリみたいな嫌な見せ方へと繋がってしまう。

 

これはバカリズムの「ネタをやった後とは違う顔をしないと女を抱けない」という指摘の通り、ネタで異性についてアプローチする場合にも当てはまる。

コントの中でもつれたりくっ付いたりを繰り返す恋愛を観客として、神様のような視点で舞台上で繰り広げられる茶番に付き合わなきゃならないのだから。

 

恋を笑いに変えるには、矢張り恋というある種の人を盲目にしてしまう厄介な存在に振り回される男と女を見せる必要性があり、そのためには我々観客を客観視させる絶対的な条件があるため、お笑いで恋にアプローチするのは一度本来の自分とは別人を演じることで自分を棚に上げて自分自身の「恥」を避けるという余計なワンクッションが必要だと思う。

 

直接自分が自分のままお笑いから恋にアプローチする方法としては、自ら「恥」を捨てて恋における経験談や、下ネタ、男女間の違いを語るなど散々やりつくされたネタを通るのみである。

 

空気階段がラジオでみせたお笑いからの恋へのアプローチは一見後者の実体験に基づく直接的な「恥」を捨てた表現であるようにみえるが、実はそれだけでないように思う。

 

昨日の水川かたまりはあまりに赤裸々な愛を吐露していた。

バイト中に店内に流れたSuperflyの「愛を込めて花束を」を聴きながらトイレから出られないというエピソードや、夜中に一緒に散歩したというエピソード、「熟女好きだった自分が初めて年下を好きになれた」というエピソードなど、どれもこれもリアルなロマンチック以外の何物でもない。

 

最後には自ら放送中に涙を流して泣いてしまうという動きまで含めて、水川かたまりは自分自身をあのラジオブース内で最も身ぐるみ剥がされた状況となり、お笑いの持つ差別性を受け入れてはいるのだが、「本当に好きだったから茶化さないで」という叫びは、かたまりの根っこの「恥」と結びついていて、最後までかたまりは自分自身の「恥」を捨てたわけではない。

寧ろ「恥」を捨てて茶化されることを受け入れてしまっていては、かたまりは自分自身に「そんな自分になってはいけない」という自意識に今後もずっと苛まれていると思う。

芸人として失恋した現状を面白く変えたい葛藤と、人間として好きな女の人との記憶を茶化してはいけないという倫理観の葛藤の狭間で動いていた瞬間がなんともドキュメントであり、「恥」を捨てないが故に自分を束縛する葛藤から解放されて最後の愛の告白へと辿り着いたのだと思う。

 

詩的な表現をあえてすると、かたまりはラジオのマイクの前でかたまり自身にとって恐らくあの瞬間一番恥ずかしかったであろう「失恋」という「恥」を捨て去るのではなく、寧ろそれによって自分自身を支えること=水川かたまりという本名とは別の姿である芸人というキャラクターと繋がった。

 

だからこそ最後の愛の告白で「(元彼女を失って自分自身を見つめ直した結果として)僕はもう1人でも大丈夫です」という言葉が出たように聞こえた。

 

空気階段のラジオは普段とラジオで顔を使い分けているような我々リスナーに、自分が自分として別の何かを演じる笑いを届ける手法を見出してくれた神回だったと僕は思う。

笑いで恋にアプローチする方法は模索すれば見つかるのかもしれないという勇気と希望が伝わる。

寝る前にもう一度神回を味わいたい。

そして、再来週の放送で水川かたまりの報告が良いものでも悪いものでも聞けるのを待っている。