大人の階段の〜ぼりすぎないで欲しい

今週の空気階段の踊り場。

水川かたまりの熱烈な愛の叫びと涙がとても良かった。

芸人のラジオだが、単に面白かったという表現だとかたまりの誠実さを台無しにしてしまう気がするので良かったと言いたい。

 

僕が21年も無駄に歳だけとってきてやっと分かったことの一つがお笑いと恋愛は相性が悪いということです。

 

これはバカリズムがANNG時代にも愚痴っていた表現が的確なので引用すると

 

「アーティストは歌ったあとそのまま女を抱けるのに、お笑いはネタをやった後とは一旦違う人の顔を装着しないと女を抱けない」

 

ということだ。

あまりにも鋭い指摘で、ラジオに日々ネタを投稿した(今は全然遅れてすらいないが)経験のある僕のようなタイプには痛いほどよく分かる。

ちなみにこの文脈におけるお笑いとは、(女性にモテるお笑いというのがあるのかは分からないが)例えばサラッと合コンの場において下ネタを混じえながら異性とコミュニケーションをとることのできるタイプのお笑いとは別であるという前提です。

 

まず第一にお笑いは、差別的な表現が避けられないように思う。KOCでのハナコについて「あったかい笑い」=「誰も傷つけない笑い」というようなコメントがSNSなどでされていたが、この所謂「あったかい笑い」の中にも例えばハナコが一本目のコントで披露した犬のネタは「犬」という人間と意思疎通が完璧には出来ない動物のある種の愚かに見える行動を愛おしい=「あったかい」と感じているため、絶対にどんなネタにおいても差別的な表現は含まれざるを得ないと僕は思う。

 

そうしたお笑いが持つ差別的な構造上、これが恋愛と結びつくとどうしても、恋するが故に我を見失う人物を神様的な視点で見守るテラスハウスや、ロンハーの恋愛ドッキリみたいな嫌な見せ方へと繋がってしまう。

 

これはバカリズムの「ネタをやった後とは違う顔をしないと女を抱けない」という指摘の通り、ネタで異性についてアプローチする場合にも当てはまる。

コントの中でもつれたりくっ付いたりを繰り返す恋愛を観客として、神様のような視点で舞台上で繰り広げられる茶番に付き合わなきゃならないのだから。

 

恋を笑いに変えるには、矢張り恋というある種の人を盲目にしてしまう厄介な存在に振り回される男と女を見せる必要性があり、そのためには我々観客を客観視させる絶対的な条件があるため、お笑いで恋にアプローチするのは一度本来の自分とは別人を演じることで自分を棚に上げて自分自身の「恥」を避けるという余計なワンクッションが必要だと思う。

 

直接自分が自分のままお笑いから恋にアプローチする方法としては、自ら「恥」を捨てて恋における経験談や、下ネタ、男女間の違いを語るなど散々やりつくされたネタを通るのみである。

 

空気階段がラジオでみせたお笑いからの恋へのアプローチは一見後者の実体験に基づく直接的な「恥」を捨てた表現であるようにみえるが、実はそれだけでないように思う。

 

昨日の水川かたまりはあまりに赤裸々な愛を吐露していた。

バイト中に店内に流れたSuperflyの「愛を込めて花束を」を聴きながらトイレから出られないというエピソードや、夜中に一緒に散歩したというエピソード、「熟女好きだった自分が初めて年下を好きになれた」というエピソードなど、どれもこれもリアルなロマンチック以外の何物でもない。

 

最後には自ら放送中に涙を流して泣いてしまうという動きまで含めて、水川かたまりは自分自身をあのラジオブース内で最も身ぐるみ剥がされた状況となり、お笑いの持つ差別性を受け入れてはいるのだが、「本当に好きだったから茶化さないで」という叫びは、かたまりの根っこの「恥」と結びついていて、最後までかたまりは自分自身の「恥」を捨てたわけではない。

寧ろ「恥」を捨てて茶化されることを受け入れてしまっていては、かたまりは自分自身に「そんな自分になってはいけない」という自意識に今後もずっと苛まれていると思う。

芸人として失恋した現状を面白く変えたい葛藤と、人間として好きな女の人との記憶を茶化してはいけないという倫理観の葛藤の狭間で動いていた瞬間がなんともドキュメントであり、「恥」を捨てないが故に自分を束縛する葛藤から解放されて最後の愛の告白へと辿り着いたのだと思う。

 

詩的な表現をあえてすると、かたまりはラジオのマイクの前でかたまり自身にとって恐らくあの瞬間一番恥ずかしかったであろう「失恋」という「恥」を捨て去るのではなく、寧ろそれによって自分自身を支えること=水川かたまりという本名とは別の姿である芸人というキャラクターと繋がった。

 

だからこそ最後の愛の告白で「(元彼女を失って自分自身を見つめ直した結果として)僕はもう1人でも大丈夫です」という言葉が出たように聞こえた。

 

空気階段のラジオは普段とラジオで顔を使い分けているような我々リスナーに、自分が自分として別の何かを演じる笑いを届ける手法を見出してくれた神回だったと僕は思う。

笑いで恋にアプローチする方法は模索すれば見つかるのかもしれないという勇気と希望が伝わる。

寝る前にもう一度神回を味わいたい。

そして、再来週の放送で水川かたまりの報告が良いものでも悪いものでも聞けるのを待っている。