留年したくない

M-1グランプリ2018見ました。

もうすでに多くの方が感想等を書いているので、審査についてとか僕はもうどうでもいいのですが、恐らく誰も触れてないであろう気になった演出について駄文を書きたいと思います。

しかし、そのためには審査について多少触れざるを得ないことをご理解ください。

ご意見ご批評は一切受け付けません。

 

これは既に言われ尽くされてることだと思いますが、漫才の大会で必要なのは発想か技術か(両方であることは言わずもがな)という問題。

今年だと立川志らくかまいたちの漫才のコメントに「うますぎて凄いと感じてしまったのだが、魅力という部分に関して点数をつけることができなかった」という内容の審査をしていた。

立川志らくの点数を見ればトム・ブラウンやジャルジャルに高得点をあげてることからも、彼らが技術はもちろんあるにしろ、技術よりもまず発想の突飛さに目がいくネタで勝負する漫才を評価していることは分かる。

 

そしてこれは僕の個人的な趣味嗜好でしかないが、僕も正直なところ正統派の上手い賞レース向き漫才にはあまり関心がないし、今年の僕のM-1優勝は怪奇!YesどんぐりRPG一択なので、漫才を見せる技術なんてものはどうでもいい。一番ウケてるのが優勝。

 

しかし何故こんなにも上手く見せる技術に関心がないのか考えてみたところ、これはお笑いというものが発想力とその場の空気感から生まれる非常にアドリブ要素が大きいことに由来するような気がした。

 

矛盾するように聞こえるかもしれないが、僕は同じ大衆を相手にする娯楽として映画について考えた場合に、面白い脚本には関心がない。

面白い脚本という言い方はあまりにざっくりしすぎているが、要するに映画の構成だとか会話劇の面白さについて惹かれない。

何に興味があるかといえば、映画を撮るためにどこにカメラが置かれて何を見せようとしているか/見せないかという点でしかない。

つまり脚本を生かすための演出ということになる。

だから今年話題の某ワンカットコメディ映画についてもギャグ要素や構成に関してはどうでもいいし、むしろエンドロールに感動しているし、皆んなが大好きなバックトゥザ・フューチャーに関しても、ストーリーなんて単に「現在から過去に戻って両親の恋のキューピッドになって、現在に帰る話」としか思ってない。むしろ凄いのは普通の映画ならカットを割るところでロバート・ゼメギスが長回しで生々しく撮っていることに面白いと思ってる。

 

映画では企画そのものの発想よりも寧ろ映像としていかに撮るかという発想(演出力)を重視してしまうのは、お笑いと違っていかに観客のエモーションを掻き立てるかという違いがあるからというように思っている。

お笑いの「楽しい」というエモーションは何かを見ていて「つらい、嬉しい、悲しい、気持ちいい」というエモーションとは異なり、ある別の感情へ誘導されたのに突如全く違うことが起こって、感情の行き場がなくなり笑いになるという特性がある。

 

だからこそ、最初の話に戻るがお笑いというのはアドリブ要素があまりに大きいのであって、脚本があってなおかつ何度も見返せる映画のようなナマモノではないジャンルと相性が悪い。

もちろん映画の撮影中に俳優の機転で面白いアドリブの会話が生まれる可能性はあるものの、それは全体を緻密に計算して作った本来の脚本とは浮いてしまう危険性が常に孕む。

三◯幸喜やら福◯雄一がつまらねーのはそのことを理解した上で映像に反映してないから。

 

誤解のないように言っておくと、僕はコメディ映画は大好物でなんなら一番好きなジャンル。

しかし、それは会話の面白さよりも寧ろ映像の巧みな編集だったり、敬愛するカウリスマキ(コメディ作家ではないけど)なら絶妙な俳優の哀愁漂う無表情をカメラで執拗に映したあとに急速に御都合主義へ展開することによって笑えるのであって、やはり脚本よりも演出が圧倒的に大事なのだ。

 

話が逸れた。

M-1という舞台は、アドリブ要素が強いというお笑いの特徴があるにもかかわらずその漫才の技術的な上手さを競う点で明らかな矛盾がある。だからこそ、上手さを超越した立川志らくが言うところの魅力が必要。

僕が映画では演出を重視して、お笑いでは発想をどうしても重視してしまうのは、お笑いそのものが映画では扱いにくいジャンルであり、そのナマモノ性にこそお笑いは価値があるため、お笑いのネタでは上手く見せる演出よりもネタそのものの発想がかなり大きな割合を占めるからである。

 

長くなったがここからが本題。

アドリブ要素が強いお笑いにおいて、それでもなお漫才を面白くみせるためには漫才師の技術だけがあればいいのか?

テレビで放映されるM-1は漫才師の技術以外の要素が面白さを生むことは可能だし、面白さを損なわせることも可能であるはず。そしてそれはテレビマンの演出力に関係し、この演出次第で例え技巧派の上手い漫才でなかったとしても面白く映し出すことは可能になるように思う。

 

カメラを使えば痛いほど分かるのだが、カメラはあまりに生々しく現実を映し出しすぎる装置であり、特に面白いかそうでないかの二択でしかないお笑いをカメラで撮り、なおかつ編集の効かない生放送は本当に怖い。

 

それが如実に現れた瞬間がある。

かまいたちが漫才中に披露した客いじりである。客いじりという行為が賞レースのお笑いではある意味禁じ手であるというようなことは抜きにして、そこでのカメラの映し出した光景が恐ろしい。

かまいたちの客いじりのボケに対応して、カメラは舞台上のかまいたちと、彼らを見ている観客の背中を映し出す。

しかし、テレビでみている視聴者には背中越しに見る漫才の舞台はあまりに冷めたような印象を与えた(少なくとも僕はそう思った)。

何故こんな現象が起こるのかというと、舞台と客席の間には明らかな境界があるせいだ。

背中はもちろん感情が見えない(背中で語るなんて絶対ムリ)であり、客いじりをした後の観客が笑っていたとしてもシラけているような印象を視聴者に与えてしまう。

ではこの現象を克服するにはどうすればいいか。

僕の現在の知識では、漫才を見ている観客の顔(笑っていたり、顰めている)を映すしか思い浮かばない。

観客の顔はまさに舞台を見ている一番ナマモノの反応であり、舞台と客席の境界を破壊し、舞台と観客席で構成されるその空間全体のリアクションへと変えてくれるために、視聴者さえもその空間へと誘う(要するに印象操作ができる)。

ちなみに上戸彩の反応を映すのは単なる上戸彩サイドの意向を感じるのであまり好きではない。

しかし、ここでも矢張り気をつけるべき事項がある。

これは某産経系列のテレビ局がネタ特番でやりがちな、舞台の後ろにカメラを置いて観客とその前に立つ漫才師の後ろ姿を見せる演出である。

たしかに観客の顔の表情は見えるが、これは明らかに舞台袖から見ている芸人視点のカメラであり、面白いかどうかでしかない漫才の舞台で別のエモーションを掻き立ててしまうので、面白さを映し出すためには明らかに余計な演出であるとともに、突然視点が舞台袖へと変わるので誰に対して見せている映像か分からず、漫才に集中できない。

この演出が好きな人が意外と多くてかなり驚き。

 

漫才という舞台で漫才以外の要素が面白さに影響を与えることができるというのは芸人さんにとっては幸か不幸か分からないが、矢張りM-1という舞台はテレビの視聴者を相手にしたエンターテイメントであることを考えると、漫才を撮るのは難しく、いかに面白く漫才を映し出すか追求していくしかない。